ネスレ通販のシステムトラブルでガチギレしそう(してる)話
たまに書くブログ、いつもは御託を並べてから本題に入るのですが、
今回は表題の通り、キレてしまいそうで感情的になっています。
なのですぐに本題へ。
少年は無垢なる右手で命を奪い、少女は機械の左手で敵を討つ。木村聡『ボーダーワールド 碧落のTAO』1巻+αの感想など
ブログも結局気が向いた時しか書いていませんが、ポータブックさんは何かと使っています。マシンパワーはないけど、少しだけ作業したい時にはぴったりですね。あと、長文書くには全く困りません。出張用との謳い文句でありながら、専ら自宅で使用しています。
今度Windows10のcreators Updateが適用とのことだけど、普通に使ってたらHDDの容量が明らかに足りないのでそのままでお願いしたいんですが……。
さて、先日仕事が嫌になったので午後から無理矢理休みをもらい、ぶらぶらお店を巡ってたんですが、漫画専門の書店でいい作品に出会えました。
ネット上でレビューや感想などを探してみたのですが、あまり見つからなくて寂しかったので書くことにしました。一番乗りだぜ、やったね!
ウルトラジャンプ連載中、木村聡先生作『ボーダーワールド 碧落のTAO』
前半部はネタバレなしのレビュー的な感想、
後半部はUJ本誌最新号掲載分まで含めたネタバレありの感想です。
ご注意の上、お読みいただければ幸いです。
(※あんまりにも好みだったので紙の書籍と電子書籍、1巻より後の話が掲載されているUJ買いました)
(※貢ぎたい応援がしたい)
monomyでオリジナルアクセサリーを作ってみた記録
初めに、この記事はmonomyというサービスを利用してオリジナルアクセサリーを実際に作成した記録です。
なぜこのような宣言をして書くのかというと、私自身が利用する前に同様の記事や感想を探してみたものの、
ほとんど見つからなかったためです。
要は体験談が皆無だったのです。それならば、レッツ人身御供。
もしもこの手のサービスの利用を考えている方がいらした時に参考になれば幸いです。
ではご興味のある方は「続きを読む」からどうぞ。
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春は過ぎ去ってしまい、夏は翳って、秋は侘しくあったけど、しかして冬がやって来る。小西明日翔『春の呪い』全2巻感想
ポータブックなるものを購入してしまったので
(昔からpomera愛好家? というほどでもないが、DM10の頃から使っていることには使っている。
DM10は塗装がベタベタになってきたのでお蔵入りしているが、DM100はまだまだ現役)
日記代わりにブログでもやってみようと思うのだが、例によってアップデート地獄である。
なので、今この文章はとりあえず入れたTeraPadさんで入力しています。
そもそもにしてポータブックさんは酷評も酷評を受けていてニッチというか変なPCを使い捌くドM向けのような評価を
受けているようですが、趣味の小説を書いて時折ブログを書くという用途ならば必要十分でしょう。
欲を言えばフリゲをプレイしたいけど、そこまでは望むまい。
ああでもヴェスタリアサーガ……無理そう。
ATOKと一太郎を入れたらそれでいいことにしよう。
あと便利そうなエディタ。うんうん。
それはともかくとして、タイトルの話題。
6月にですね、『春の呪い』という漫画が面白いと聞き、
pixivで1話が無料公開されていたので試し読み(※現在は2話まで試し読みできます)、
とても惹かれる(引かれる、という表現の方が正しいか)お話だったのでkindleで1巻ぽちー、
2巻の発売を心待ちにほんと心待ちにしていて、コミックゼロサムの12月号で表紙を飾っている上に最終回掲載、
もしかしたら後悔するかもしれないけど、この表紙と最終回のためにゼロサム購入。
そして12月24日に日付が変わると同時にkindleで2巻をぽちっ。
先が読みたくて、結末が知りたくて、仕方がなくなる。
それぞれの思いに締め付けられ、それでも生きねばならずに足掻く彼らを見届けたくてたまらない。
主要人物らの背景ゆえに、確実に人を選ぶし、もしかすると生理的嫌悪感を抱く人もいると思う。
それを越えてまで読んでほしいとは思わないが、「苦しい」とも「切ない」とも言い切れない感情を
誰かと共有したくて、できれば一読してほしいと願ってしまう、素敵な物語でした。
以下、概要とネタバレ感想。
(ネタバレ感想は部分的にはかなりぶっちゃけてますのでご注意ください)
終わる夏、終わらずに続いていってしまうもの(私の反省)
私の2013、夏の思い出は、半日しかなかったお盆休みです!
数年間いろんなところで働いてきて、初めて取ったお盆休みでした!!
有休が発生していなかったので無給休暇です!!
友達と遊んで飲んで食ってなくなりました!!
お金も無くなりました!!!
……前置きはともかくとして。
今年の1月からろくでもない派遣会社に登録しまして、これまたろくでもない職場で働いています。
その職場っていうのが学校です。もちろん教える方じゃありません。支える方です。
何だかいい響きですね!
だけど生徒にも先生にも無理難題押し付けられて苦しむ中間管理職的な部署だよ!
よく求人雑誌に「人気の学校事務!!」なんて広告が載るけど、いや~、そこまで憧れるようなものでもないんじゃなかろうか。
自分のポジションの派遣さんは結構な頻度で辞めてる。
学校事務の正社員と聞くと、何ていい職に就いたの!いいわね!って羨まれ妬まれること必至だけど、正社員さんも1,2か月に1人は辞めて、すぐに新しい人が来ます。
そんな新陳代謝のいい我が事務室の最下層、雑用係を私はやっているのです。
何でも、歴史のある学校は扱いは雑じゃないし給料もまあまあってお話を聞いたので、狙い目はそういうところなんでしょうねえ。
証明書発行しますよー、とか、講師の先生来ないから連絡取ってみるー、とか、授業の資料を山ほど刷らなきゃ!などなど、下っ端なので簡単だけど量は多い仕事をやっていたりやっていなかったりするのですが、夏からは入学関係のお仕事もするようになりました。
入学? まだ夏だろう? とお思いの方がどれほどいるか分かりませんが、気の早い専門学校や大学では、もう募集が始まっています。
私の派遣先も、来年度もしくはそれ以降の稼ぎを得るために今の時期から意欲満々な(もしくはさっさと進路を決めたい)学生を青田買いする学校のひとつです。
私の仕事は、願書をチェックし、不備がないかを確認し、エクセルに打ち込みして正社員さんのチェックに回すという、ごく簡単な仕事をしています。簡単だけど、不備はよくあります。
ちゃんと、ちゃんと要項読もうよ……!
それか誰かに見せなよ……!
ハンコがないよ!返信用のハガキがないよ!写真貼ってないよ!住所が書いてないよ!!
こんな不備は日常茶飯事です。お願いだから確認してください。
願書と一緒に奨学金等の申請書類が同封されていることも多々あります。
この2年間で、奨学金や学費免除の申請をする子(もしくは家庭)は急増したそうです。
理由は、震災。
そういう申請をするためには、被災証明とか、所得証明とか、あとはああだったりこうだったりする証明書を添付して頂いています。
そういう書類を見るだけで、胸が痛みます。
私の住んでいる場所は全国的に見れば被災地なんでしょうけれど、内陸でしたので、せいぜい自宅の風呂が1か月間ほど使えないくらいで済みました。
だからかもしれません。車で1時間と掛からないところに本当の被災地があるのに、震災のことや、そのために今も大変な苦労をされている方がいらっしゃることを、忘れていた。
忘れていたというより、自分には戻ってきた平穏に呑まれて、震災があったという事実を「ありふれた日常」のものにしていたのだと思います。
大きな地震があった。津波が来た。多くの人が亡くなり、多くの人が苦しんでいる。
それは事実であり、今も続くことだけれども、だけど自分と線は繋がっていない、別の問題として認識してしまっていたのだと。
震災の起きた2011年、それからの半年間は毎日、何かしらの形で震災のことが報じられていました。
めざましテレビで毎朝、偽善のようなお手紙コーナー(失礼)があったことを覚えていますが、やはり半年程度でなくなったと思います。
半年を過ぎてからは、全国規模では報じられなくなったと思います。
その時は私、とても悔しかった覚えがあるのです。ああ、こうして風化していくのだなと。
クローズアップ東北を見ては、どうしてこれを全国で放送しないのだろうと憤ることもありました。
忘れたければ忘れればいい、辛い思い出なんて。だけど記録には残しておかなければいけないし、誰かは覚えていなければいけない。
それが東北の人たちだけなんて、ひどいじゃない、なんてことを思っていたのです。
だけれども、震災からおよそ2年半後の私は、東北の人間なのに忘れた側にいました。
震災は終わらずに、続いていくようです。ずっとずっと。
大切なものをたくさん失くした子たちがいます。
それでも学び続けたいと懇願する子たちがいます。
今日もうまくまとめられないですけれど、学びたいと願う子たちが被災地域にはたくさんいるけれど、経済的事情で学べない子ってたくさんいるんだと思います。
願書を出して、色んな申請をする子は「まだ」経済状況がいい子なのかもしれない。
本当は、願書を出せず、涙を呑んで就職の道を選ぶ子がいるのかもしれない。
また、奨学金等の申請をしても、全ての子が受けられるわけではない。
あんなろくでもない学校にすら、生活が苦しくても行きたいと言ってる子たちがいる。
ちゃんとした学校にはもっともっとそういう子たちが多くいるのでしょう。
せめて、どんな状況にあっても、勉強したければ勉強が出来るようになってほしいと思います。
やっぱりうまくまとまらない。
「木」を作らせるなら「森」を見せてください、お願いします。
何年か前から派遣社員として働いています。昔から今に至るまで、何にも持っていない空っぽな人間なものですから、就職活動に失敗しました。正社員として働いた経験がありません。無職で過ごした期間もあります。
私みたいな何にもない人間でも、ある程度の能力が認められれば(あるいは都合のいい人間と判断されれば)、働かせてくれる派遣という制度に私は感謝している部分が少なからずありますし、労働者の3割超が非正規雇用となり、更に増加する気配もある昨今、非正規雇用を正規雇用にする施策より、非正規雇用でもそこそこには生きてはいけるような世の中にした方がいいんじゃないかな、と個人的には思っております。どんな雇用形態でも生存権は保障しておくれよ。ただ、弱者救済を表に掲げる政党って胡散臭いところが多いから、そういうのは信じないことにしてるんですけど。
さて、それは今日の本題じゃない。
ずーっと派遣社員、即ち下っ端として働いていると、仕事として与えられるのは大抵単純作業です。
データの打ち込みや計算、各種資料の大量印刷や発送作業、等々。
私が働いてきた範囲の中では、派遣社員もしくはそれに類する者は「考える道具」として扱われていました。
ある程度までは自分で考えて行動し、高度な判断が必要な場合は指示を仰ぐ道具です。
道具でも下っ端でも一生懸命働かせて頂いて、お飯を美味しく頂戴いたしますよ。
だけれど、結局最後に何を得たいのか、何を作りたいのか、どうしたいのか、ということを教えてもらえないと、ただの単純作業も捗らないんです、私の場合は。
昨日の出来事です。
私が現在の会社に勤め始めて5か月経ちます。主にデータ入力をしていますが、昨日になってようやく、そのデータを入力して最終的にどんな結果を得たいのかを教えてもらえました。ああスッキリ。
本当はあやふやにしちゃいけないことだとは分かっているんですが、その数値や記号にどんな意味があって、それを正確に入力することで何が得られるのかが分からないと、適当でいいやーってなってしまう。
私に仕事をくれる人が、いつも社内にいるのならば、逐一教えて頂いて、その意義も一緒に学べるのでしょうけれど、ほとんど社内にいない人たちなので聞けません。1週間2週間出張で丸々いないなんてざらです。勤め始めてからほっとんどの期間で放置プレイ食らってますよ。
それはさておいて、突然ですが仕事を炊飯に例えます。
A.精米する
B.何合炊くか決めて米を量る
C.米を研ぐ
D.水加減を調整する
E.炊飯器で米を炊く
F.炊きあがったご飯を茶碗に盛りつける
G.完成
この一連の流れのCとDを任せられたとします。
美味しいご飯を食べるためには水加減が重要です。
また、米研ぎが不十分で糠が落ち切らないご飯は美味しくありません。研ぎすぎもまた然り。
だけど、「美味しいご飯」ってどんなものなのかは、見たり食べたりしなければ分かりません。
お米を研ぐにしても、どれくらい研げば丁度いいのか分からないかもしれません。
水加減とか研ぎ具合を均一化する手段として、マニュアルを作成するって手があるでしょう。しかし、マニュアル化したところで結局、完成品を見て、自分の手が携わったものが最終的にどんな形になるのか、ざっくりとでもイメージを掴まないと仕事ってやり辛いし、何よりモチベーションが上がりません。私の場合は(←逃げの言葉)。
派遣社員等、とにかく下っ端さんに単純作業を任せるときは、単純作業そのものだけみっちり仕込んで、うまく行く場合もあるかとは思います。
だけど、できれば全体がどういう流れで動いていて、最終的にどんなものを作り上げたいと考えているのか、そのために単純作業のフェーズではどんなことに気を付ければいいのか、ということを、末端の派遣社員にも教えてもらえると嬉しい。
少なくとも私は嬉しい。その方がちゃんと仕事に関わっている!って実感できる。
昨日の出来事が、本当に些細なことなのにとてもスッキリしたと感じたのは、たぶんこういうところの説明が今までほとんどなかったからだと思います。
派遣社員は「考える道具」だけど「感情のある道具」でもあるから、役に立ってるって実感がないと、ただの道具よりも動かなくなるので、取扱いにはお気を付けください。
風立ちぬを観に行きました
美しければそれでいい
(あえてのKAITO)
(ありふれた感想です、新しい発見などはございません、ご了承ください)
それほど興味があるわけではないけれど、できれば公開初日に観に行きたかった。
結局公開からおよそ1か月経った今日に観に行きました。
普段の週末であれば、そこそこ人がいれば賑わっている方の、地元の小さく良心的な映画館に行ったのですが、ロビー内がごった返ししていて、その場にいたお客の半分以上が「風立ちぬ」を観に来たらしく、さすがのジブリと驚いた次第です。
客層はそれこそ老若男女。体感ですが、普段映画を観に来ない(ジブリだから観に行く)ような方々が多いようでした。
前2列以外の席はすべて完売。実質としては満席のようなもので、公開1か月で人気冷めやらぬ様子のジブリ映画はやっぱりすごいなあ、と思いつつ着席。
隣の3人組のオバちゃんうるさいなあとか(上映中もぺちゃくちゃ話したり、携帯電話の操作をしたりとなかなか素敵なマナーをお持ちの淑女様方でした)、前の席でファッション雑誌を広げている若いねーちゃんたちが楽しめる映画なのだろうかと余計な心配をしているうちに照明が落ち、予告編開始。そののち本編へ。
感想は正直なところ、一言では何とも書き表せない。
多くの方が仰られているように淡々としていて、退屈で、睡魔に襲われることもありました。最初らへんがね、きつかった。
視聴者にどんな場面かを飲み込ませることをせず、すでに出来上がったキャラクターでころころ話を転がして、物語は次へ次へと進んでいきます。
それで視覚的に爽快であるとか、わくわくするような絵であればそれに引っ張られるようにしてお話の中に入っていけるのかなと思ったけれど、悲しいかな、スクリーンに広がるのは緑の風景とか、机とか、時々飛行機。
場面が変わるごとに前の場面から随分と(年単位で)時間が経過するなど当たり前で、幼少期以降、二郎の外見にあまり変化がないので、前の場面からの繋がりが分からないと思うことが多々。ただし、これは序盤の特徴で、中盤からはおよそのシーンに繋がりがあるので、そこからは集中して観ることが出来ました。
要約すると、場面切り替えが頻繁にあるので置いてけぼりを食らうってことです。
敢えてやっているのだろうし、およそ80年生きた人の反省をたった2時間で辿るのだから、仕方なしか。しかし、分かりにくいと私は感じました。
映画の内容的な感想(と、この記事の一番上に「美しければそれでいい」を置いたわけ)。
・夢
・美しい
・煙草
・天才
・人生の創造的時間
このあたりがこの映画の根幹にあるものでしょうか。
特に「美しい」は二郎が連呼するので、嫌にでも耳に残ります。
また、煙草を嗜む描写が多いことも特徴です。煙草嫌いの方には辛い映画なのは確かでしょうよ。たとえこの映画に時代背景に口を出すことが無駄と分かっていはいても。私の場合は父と兄が愛煙家なので全く気になりませんでした。
この映画で描かれている堀越二郎さんの本質は、多くの方が指摘されているように、人間性に欠けた天才なのでしょう。
その生き方はクリエイターの方から見れば理想に映るのだと思います。
幼いころから思い描いていた夢をひたすらまっすぐ追い続け、最後には空の向こうにある夢を掴むのです。自分が作り上げた、「美しい」飛行機で。
彼は、自分の作り上げるもの、自分のそばにあるものが美しければそれでいい人間のように私には見えました。
あくまで私個人の意見なのですけれど、菜穂子のことも結局はただ美しいから結婚しただけに過ぎないのではないのかなと思いもしました。ぶっちゃけおもちゃ扱い。奥さんって名前のおもちゃ。やたらキスシーンが多いのもこの映画の特徴といえば特徴で、今までのジブリ映画がこのような直接的な行為や言動(「来て」には物凄くビビった)はせず(ポニョは除く)、さりげない動作とかで感情の機微をあくまで間接的に表現していたのに、あえてキスを連発したりセックスを思いっきり匂わせるのは、そういう表面的なところでしか愛情を示せなかった、もしくは奥さんおもちゃとしての愛情は持っていたけれど、本質的に伴侶としての愛情は抱いていなかったからではないかと思ったのです。
「美しい」奥さんがこの世からなくなってしまうのは嫌だから、電報で駆け付けたりすんのかなあと。
彼は全く人間的な感情を持たない人間ではないけれど、だけど彼の本質は美しいものを好む天才。美しくなければ彼の傍にはいられない、だから菜穂子は朝に化粧を施すし、死の間際、つまりもう美しくはいられない自分を悟り、零戦を作り上げた二郎の元から去っていく。
(零戦を作ったその期間と、そのために美しくあった菜穂子の時間が、彼ら二人の「人生の創造的時間」であったのだろうなあ)
夢を追うことは確かに「美しい」けれど、そのために犠牲になるものがある。
煙草なんて、そのメタファーとして出てきたものじゃないかと勘繰っています。
二郎や本庄(ところで、腐女子の方としてはどっちが攻めでどっちが受けなんでしょうね?)ら天才はよく煙草を口にする、仕事の時など特に。ご存じのとおり、煙草は自らと、そして周囲の健康も害します。よく批判に上がるラスト近くのシーンでも、仕事をしている二郎は容赦なく煙草を吸います。天才は没頭すると周りなんか見ない、相手が死にそうなくらい苦しんでいても。モノを作るってことは、偉そうに見えても罪深いこと。それに気づくか気づかないかはともかくとして。
ラストシーンの二郎さんは、妻と美しく作り上げた飛行機を失い、やっとそれに気づいた感があります。夢の中でも人間っぽい考え方。
でもそこは彼の夢です。自分の中の菜穂子に赦しを請い、赦される。エゴい。自分勝手にやって成果は得たけれど、なんかいろいろなくなっちゃったから、最後には罪悪感を感じ、だけど自分で罪を許すエゴい人のお話。
そんな話なんだと感じました。
雰囲気映画だけど、いろいろ考えさせられることがあるかんじ。
こう書くと最大級の賛辞のように聞こえるけれど「風のような」映画なんだと思います。
風に当たった感覚は長く残るけど、風そのものに形はなく、行き先も知らない、そんな風属性映画でした。