風立ちぬを観に行きました

美しければそれでいい

 

 

(あえてのKAITO)

(ありふれた感想です、新しい発見などはございません、ご了承ください)

 

それほど興味があるわけではないけれど、できれば公開初日に観に行きたかった。

結局公開からおよそ1か月経った今日に観に行きました。

普段の週末であれば、そこそこ人がいれば賑わっている方の、地元の小さく良心的な映画館に行ったのですが、ロビー内がごった返ししていて、その場にいたお客の半分以上が「風立ちぬ」を観に来たらしく、さすがのジブリと驚いた次第です。

 

客層はそれこそ老若男女。体感ですが、普段映画を観に来ない(ジブリだから観に行く)ような方々が多いようでした。

前2列以外の席はすべて完売。実質としては満席のようなもので、公開1か月で人気冷めやらぬ様子のジブリ映画はやっぱりすごいなあ、と思いつつ着席。

隣の3人組のオバちゃんうるさいなあとか(上映中もぺちゃくちゃ話したり、携帯電話の操作をしたりとなかなか素敵なマナーをお持ちの淑女様方でした)、前の席でファッション雑誌を広げている若いねーちゃんたちが楽しめる映画なのだろうかと余計な心配をしているうちに照明が落ち、予告編開始。そののち本編へ。

 

感想は正直なところ、一言では何とも書き表せない。

多くの方が仰られているように淡々としていて、退屈で、睡魔に襲われることもありました。最初らへんがね、きつかった。

視聴者にどんな場面かを飲み込ませることをせず、すでに出来上がったキャラクターでころころ話を転がして、物語は次へ次へと進んでいきます。

それで視覚的に爽快であるとか、わくわくするような絵であればそれに引っ張られるようにしてお話の中に入っていけるのかなと思ったけれど、悲しいかな、スクリーンに広がるのは緑の風景とか、机とか、時々飛行機。

場面が変わるごとに前の場面から随分と(年単位で)時間が経過するなど当たり前で、幼少期以降、二郎の外見にあまり変化がないので、前の場面からの繋がりが分からないと思うことが多々。ただし、これは序盤の特徴で、中盤からはおよそのシーンに繋がりがあるので、そこからは集中して観ることが出来ました。

要約すると、場面切り替えが頻繁にあるので置いてけぼりを食らうってことです。

敢えてやっているのだろうし、およそ80年生きた人の反省をたった2時間で辿るのだから、仕方なしか。しかし、分かりにくいと私は感じました。

 

映画の内容的な感想(と、この記事の一番上に「美しければそれでいい」を置いたわけ)。

 

・夢

・美しい

・煙草

・天才

・人生の創造的時間

 

このあたりがこの映画の根幹にあるものでしょうか。

特に「美しい」は二郎が連呼するので、嫌にでも耳に残ります。

また、煙草を嗜む描写が多いことも特徴です。煙草嫌いの方には辛い映画なのは確かでしょうよ。たとえこの映画に時代背景に口を出すことが無駄と分かっていはいても。私の場合は父と兄が愛煙家なので全く気になりませんでした。

この映画で描かれている堀越二郎さんの本質は、多くの方が指摘されているように、人間性に欠けた天才なのでしょう。

その生き方はクリエイターの方から見れば理想に映るのだと思います。

幼いころから思い描いていた夢をひたすらまっすぐ追い続け、最後には空の向こうにある夢を掴むのです。自分が作り上げた、「美しい」飛行機で。

彼は、自分の作り上げるもの、自分のそばにあるものが美しければそれでいい人間のように私には見えました。

あくまで私個人の意見なのですけれど、菜穂子のことも結局はただ美しいから結婚しただけに過ぎないのではないのかなと思いもしました。ぶっちゃけおもちゃ扱い。奥さんって名前のおもちゃ。やたらキスシーンが多いのもこの映画の特徴といえば特徴で、今までのジブリ映画がこのような直接的な行為や言動(「来て」には物凄くビビった)はせず(ポニョは除く)、さりげない動作とかで感情の機微をあくまで間接的に表現していたのに、あえてキスを連発したりセックスを思いっきり匂わせるのは、そういう表面的なところでしか愛情を示せなかった、もしくは奥さんおもちゃとしての愛情は持っていたけれど、本質的に伴侶としての愛情は抱いていなかったからではないかと思ったのです。

「美しい」奥さんがこの世からなくなってしまうのは嫌だから、電報で駆け付けたりすんのかなあと。

彼は全く人間的な感情を持たない人間ではないけれど、だけど彼の本質は美しいものを好む天才。美しくなければ彼の傍にはいられない、だから菜穂子は朝に化粧を施すし、死の間際、つまりもう美しくはいられない自分を悟り、零戦を作り上げた二郎の元から去っていく。

零戦を作ったその期間と、そのために美しくあった菜穂子の時間が、彼ら二人の「人生の創造的時間」であったのだろうなあ)

夢を追うことは確かに「美しい」けれど、そのために犠牲になるものがある。

煙草なんて、そのメタファーとして出てきたものじゃないかと勘繰っています。

二郎や本庄(ところで、腐女子の方としてはどっちが攻めでどっちが受けなんでしょうね?)ら天才はよく煙草を口にする、仕事の時など特に。ご存じのとおり、煙草は自らと、そして周囲の健康も害します。よく批判に上がるラスト近くのシーンでも、仕事をしている二郎は容赦なく煙草を吸います。天才は没頭すると周りなんか見ない、相手が死にそうなくらい苦しんでいても。モノを作るってことは、偉そうに見えても罪深いこと。それに気づくか気づかないかはともかくとして。

ラストシーンの二郎さんは、妻と美しく作り上げた飛行機を失い、やっとそれに気づいた感があります。夢の中でも人間っぽい考え方。

でもそこは彼の夢です。自分の中の菜穂子に赦しを請い、赦される。エゴい。自分勝手にやって成果は得たけれど、なんかいろいろなくなっちゃったから、最後には罪悪感を感じ、だけど自分で罪を許すエゴい人のお話。

そんな話なんだと感じました。

雰囲気映画だけど、いろいろ考えさせられることがあるかんじ。

こう書くと最大級の賛辞のように聞こえるけれど「風のような」映画なんだと思います。

風に当たった感覚は長く残るけど、風そのものに形はなく、行き先も知らない、そんな風属性映画でした。